あざなえるなわのごとし

もともと人間の情動は定量化できない。 なぜかと言えば人間の脳や感性は全ての個体が等質ではないし、同じものを見て誰かは「気持ち悪い」と感じ誰かは「カワイイ」といい誰かは「格好いい」という可能性は充分にある(もちろん感性をアウトプットする感覚言語の選択の問題である可能性は鑑みた上で)。 キティちゃんはカワイイ。 ではそのかわいさは林檎何個分か?という定量化はできない。 仮にキティちゃんがリンゴ3個分カワイイとして(この時点でおかしいが)、では橋本環奈の可愛さはリンゴ何個分か?と他に適用するのも難しい。 ひとつの定規を他に対しても適用し比較するのが定量化だが、感性や感覚は絶対的ではないからこそ定量化できない。 感覚とは、対象の絶対値ではない。 あくまで受け取り手により一程度変動する曖昧なものでしかない。 そもそも言語は、脳内の概念を定量的に置き変えるための擬似的な手段でしかない。 強力ではあるが、絶対的なツールではない。 共通コミュニケーションの手段であり、かつ人間の膨大な思考を擬似的に捕まえるためのツール。 人間の内的世界の抽象を、外的に定量化するための文字や数字に還元することは難しいし、出力した時点でそれは内的な抽象と等価ではない。 人間は0や1を入力すればそのまま0や1で出力する単純な仕組みではない。 感想、批評だと言うが、ひとつの物語・作品に含まれる膨大な情報の中のごく一部だけを、独りの人間が己の感性という装置を通し、さらに言語に変換したものはその人間のものでしかなく、作品とは関係ない。 作品が良いか悪いか? それはその作品を同じように観るしかない。 個々の感性により判断は異なり、価値もまた然り。 「誰かが○○と感じた作品(物語)だからそういう風に考える可能性が高いだろう」という目安にはなるが。 仮に可能であれば、作品を見ている脳の電位を直接計るしかないだろうが、それにしろさまざまなノイズが多く(少しでも他のことを考えればそれがノイズになりえる)実際的ではないだろう。 人間の美的感覚というのは定量化できず感覚を計るのに感覚を持って行うからこそ抽象的。 ファッションは、文字言語化できない感覚的な抽象を言語や数字などの言語記号に変換せず、直接的に形として表現し心理的効果として昇華したもの。